今日は朝から、何だか気が乗らない。
なぜ気が乗らない?と聞くと、
「買い物に行かなきゃいけないから」
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以前の、「食材がなくなる不安」は無くなったけれど、
やっぱり買い物に行くのは超面倒くさい。
なぜにこんなに面倒かを自分に聞いてみる。
「誰か知り合いに会うから?」
「お金が消えてくから?」
まあ、それもあるっちゃある(笑)
「知り合いに会わず、お金も山のようにあったら、行くのが面倒じゃなくなる?」
と聞くと、「いや変わらず全然面倒」との回答。
ということで、まだ形にならないその理由を紐解いていく。
会話しながらジャッジせず引き出していく。
・身体を生きながらえさせるために食べなきゃいけない
・家族の喜びを感じさせるために新しいものを食べさせなきゃいけない
・身体は世話しなきゃいけないものだと思っている
・生きるのは面倒だと思っている
・やりたくてやっているのではなく、仕方なく、頭で必要だと理解していてやっている
・やりたくもないのに、私の労力も気力もお金も流れていく(笑)
買い物=面倒でしかない
面倒=極力避けたいモノ
このあたりで、最近面倒だと感じることをいろんな角度から感じたことを思い出す。
例えば、
・一番下の娘が「友チョコ」をバレンタインの日に渡したいと言い出し、一瞬で却下した(笑)
・一番下の娘から今回の授業参観は木琴をひくから来てほしいと言われたのに、保留にした(笑)
・夫が最近仕事がうまくいかないようで元気がないのを知り、無意識に接点を持たないようにしている自分がどこかにいる(彼のネガティブな状態に心が持って行かれそうで面倒に感じている)
・中間テスト真っただ中の上の二人。以前、コントロールを外してから、娘は自分で勉強を始め、あまり関与することがなくなったけれど、テスト前日ということもあり、問題を口頭で出してほしいと二人とも夕飯が終わって来て、彼らの熱量を感じてもちろんやったけれど、心の中は、めんどくせーーと思っていたし、自分でやれよと口からでそうだった(笑)
‥‥
と書きながら、これらは今に始まったことじゃなく、ずっと持っていたものだ、
と気づく。
今までこんなもの気づいて当り前なのに、そういうもんだと思っていた。
そう思うと、あれもこれも。この時のあれも、あの時のそれも(笑)全部そう。
時代を昭和まで遡る勢いで、あれもこれもと気づく。
要はずっとめんどくさいを結構人生の大きな規模でもって生きてきたことを知る。
なぜ「めんどくさい」をここまで持って生きるのだろう、とその奥を感じてみると、
「変に動いて傷つきたくない」
「無駄に労力を使って、変なことに巻き込まれたくない」
「ドタバタ劇をもうやりたくない」
「必要以上に自分を疲れさせたくない」
「静かに平和に生きたい、安定していきたい」
…そうか、こうやって私はずっと守られてきたのか。
その奥に在る、いわば一種の愛の形に気づき、
一方で、これに気づかせられた今、ずっとこの枠の中で生き続けるのか否かを感じてみる。
そうして、怖いけれど、
面倒という形で、高い塀の中にいるように守られていたけれど外に出て、いろんな経験をしてみよう
もし傷ついたりぐちゃぐちゃな事態になろうとも、私はいくらでも超えていける「術」を持っている。
安定でもあるけれど、違う言い方をするなら、「何も起こらない」という枠の外に出て、もっといろんな経験、体験をさせてあげようと決めました。
そう決めた途端、
不思議なくらいに、
・娘が配れるように、友チョコを買いに行こう
・授業参観は行こう
・今日、スーパー3件くらいはしごしよう
という気になり、すぐに行動できました。
やってみると、あんなに面倒だと思っていたのに楽しい、という。
気づかなければ変えられない。
でも気づきさえすればいくらでも変えられるという、意識の持つ力、魔法に
今日も素晴らしいなと思うのでした。