数日前に、お魚二匹を死なせてしまいました。
白点病罹患中につき治療のため別の水槽にうつしていたものの、
どういうわけか夜中の間に酸素を供給する機械の電源コードがコンセントから抜けており、朝、水槽のカバーを開けると変わり果てた姿に。
お魚と言えど、我が家では家族同然で、その愛らしさは常に家族の会話の中心で、お腹を空かせて怒る様も、きょとんとした表情も、繰り返す行動パターンも愛すべき対象で、人間のように意思があり、それぞれ性格が違い、まさに我が子が増えた感覚でした。
決して望んではいたわけではないけれど、人間の不注意により、死に至らせてしまった事実に何とも言えない、胸が張り裂けそうな想い、家族で号泣し、私も終日泣きすぎて頭が痛い、ボーとする、何も考えられない状態に。
ひとしきり、後悔や懺悔や彼らとの楽しい愛おしい日々に思いをはせたり、グルグル。
その一方で、魚が死にこんなに悲しいのに、食卓であがる魚には何も感じていない事実。
我が家の魚に限らず、お肉も野菜も同様に、彼らは性格がみんな違って、個性があり、命があった。
切り身になったり、綺麗にパッキングされてはいるけれど、その前は命ある存在。
そう思うと、私はどれだけの命に支えられ生きているのだろう、と。
プラスチックだって、元は原油。太古の昔の植物。
鉄筋コンクリートだって、金属だって、地球に在る素材を人間が加工して
様々な形状になっているだけで、それらは地球にもともと存在するものたち。
そんなことを感じていると、目の前に在るすべてが、「命あるものたち」。
(金属等を命あるものとして捉えるかは置いておいても、地球の恵みとして様々な形を変え循環し、こうやって目の前に与えられたものたち)
ソファーだって、本棚だって、漫画だって、陶器だって、目の前に在るものすべてが、命あるものだった。
今まで当たり前だと思って何も心寄せていなかったものたちが急に愛おしく感じ始めた。
私は今までどれだけの命に支えられ存在させてもらっていたのだと。
人間のみならず生物は食べずには生きられない。
何かしらのエネルギー源を外から供給しなければ生きられない構造だ。
命あるものたちを食べないという選択はできない設計になっている。
調和とは、こうした白も黒も内包した上で成り立っている。
ひとりで生きている気になっていたけれど、生かされているのだ。
彼らを失い、心にはぽっかり穴が開いたままだけれど、このさみしさや愛おしさを感じながら生きていこうと思う。
それらは彼らの存在がそれだけ大きいものだったという証であり、
やはり存在してくれたからこそ、これだけの経験や感情を味わうことができたのだ。
存在しなければ、そもそもこうした経験や感情は生まれない。
息子とはよくケンカするけれど、それもまた彼が存在してくれるから出来得ること。
存在してくれるすべてのものに感謝し、息子とは変わらずバトルを楽しもうと思う。
彼らの死はいろんなことを気づかせてくれた。
だけど、やっぱり彼らがいなくて寂しい。
彼らの存在がいまだにリアルに記憶のなかにあり、いないことを受け入れられない。
でも、それでいいと思う。
時間が解決する部分もあると思うが、彼らへの愛を思いっきり感じて喪失感も抱きしめて過ごそうと思う。